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執筆者の写真反田孝之

自分の役割

昨日今日とそれぞれ別件で二つのたくらみ。いろいろあってまだ口外しにくい。それにしても明らかに社会のために益になることにそれなりの立場で必要とされるということは何とも幸せなことだ。自然栽培農家冥利に尽きる。


私の周囲には、私にしかできないことがいくつかある。例えば田津地区の農地と景観を守る活動が分かりやすい。私が今死ねばきっとこの活動は終わりを迎える(当事者の皆さんがそう言っている)。私にとって負担の大きなボランティアであるものの、責任の大きな重要な活動なのである。

俯瞰すれば、私の義務。その義務を果たすためには切らなければならないことが少なくない。ちょっと前にもめたPTA役員の件もこれ。災害続きでただでさえ余裕のない経営を抱えているのだから、せめて私にしかできないことだけは死守するために、その手のものは信念でお断りせざる得ない。


しかし実際にはいくつかは死守できないことになりそうだ。例えば毎年受け入れている小中学生のゴボウ畑の見学。今年から春まき型をやめるので、ゴボウがある1学期のうちしか受け入れができない。しかし1学期は今までも厳しくて断っていたところなのに、洪水リスクを下げる絶対的なミッションを抱えた今年からは絶対に無理。「ああ無理なのか、無理だよな、でも残念だな、でも無理だよな・・」などとグルグル悔やんでいてどうしようもない。


まあいい。誰に何を言われることもあるだろうけど、どのみち九死に一生を得た人生だ。平均寿命までおよそ30年、ただ精一杯生きるだけである。

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