みんないなくなる
- 反田孝之
- 2月21日
- 読了時間: 2分
更新日:3月7日
いろいろあって、更新がまた数日あいた。近所に住む叔母さんが急逝されたのもその一つ。
心臓に絡む突然死らしい。そのことを早朝に親父から電話で聞いた折、ふとスマホの着信履歴を見ると地元の番号が。そこですべて理解。マナーモードで気が付かなかった。気がついてあげれればよかった。
後から聞いた話では、亡くなられる間際に、隣人のおばあさんに助けを頼むよう同居する少し訳ありの娘に伝えたらしい。玄関をたたいて起こして、すでに息のなくなった叔母さんの心臓マッサージを試みたと。近所に住む唯一の身内である私への電話は、どのタイミングだったのか。繋がらなかったので親父にかけたと。私が電話に気がついて出ていれば、何か状況が変わることはあったのか、なかったのか。それを悔やんでずっと引きずっている。
ごくたまに夜中にワン切りの迷惑電話がかかってくるようになって、時間で自動的にマナーに切り替わるように設定している。お袋の時には、父からの電話にバイブの音で気が付いた。しかしこうやって気が付かないようでは、これから親父に何かあった時のことを思えば見直さなければならない。
ちなみに先月には、主要機械置き場として使っている旧事務所から唯一見える家に住む方が急死された。私が作業機を付け替えたり掃除をしたりしている時に、自然と日常的に目に入る唯一の人だった。
最近、身近にいた人がどんどんいなくなる。しかも急に。そのくせ新しい出会いは少ない。ほぼない。ド過疎を進行形で肌で感じる。
つくづく、人の世は無情だ。生死について考えない日は一日すらない。私もいつ死んでもおかしくないし、常々書くようにいつ死んでもいいと思っている。そしてそのくらい自分で精いっぱいやり切ったという思いが大きいということなのだと、いいように解釈している。もちろん家族のことやこれから私がやるべきことを思えば、その気持ちは当然のように覆る。ただ本質的に生に執着がないということは良い状態なのではないか。
寒い日が続く。おそらくこの冬最後の寒波の真っ盛りだ。来週からは春めいてくる。また春を迎えてしまうなと。今の農業を始めて22回目の春。いまから22年後なら私は76歳。うん、楽しい人生だった。多くの人たち、ありがとう。
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