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執筆者の写真反田孝之

私の死生観の源泉

「いつ死んでもいい」が口癖の私。幼な子がいる今は当然そういうわけにはいかないのだけれど、私の中を貫く一つの世界観としては​明らかにある。


先日、学者が書いた死生観についての記事を某新聞で読んだ。身内の死が自宅内にほぼなくなった現代では、死は自分の身近にない。それゆえに死を恐れる。死への恐れの度合いで今の生き方、幸福感は変わる。死への恐れは死後の世界の存在を信じるかどうかが大きく関わる。それゆえ死後の世界を説く宗教が存在する。こんなところだったか。


読みながら、多くの人の目に留まって欲しいなと。新聞は相変わらずコロナのさりげない偏向報道をやめないというヤクザぶりを発揮している一方で、こういう良質の評論を載せる。この残念さから抜け出せないものか。


話を戻して、この評論はまさに私が日頃考えていることだったのだ。私の生への執着の無さは、死後の世界を信じるからに他ならない。しかし一方で私にはほとんど信心深さがないと言っていい。であるのに死後の世界、さらに言えば現世の守護霊などを信じられるのは、私の場合はこれまでの不思議体験——これまでに時々書いてきたヒグマに襲われた体験以外にも、死にかけて死ななかった体験、それもなぜ助かったかの合理的説明がまったく不可能な神秘体験——のおかげであると思っている。


死の話をすると、嫌がられる場合が多い。しかし死生観が人生の幸福感を大きく左右するのだとすると、死が身近でない現代において、このことはもっと日常の中で語られていいのではないかと思う。そうすればこのたびのコロナ騒ぎに象徴されるように、いかに高齢者優先社会の主役である団塊の世代が手ごわいといっても、わずか20年余りでここまで死生観が劣化することはなかったのではないかと思う。

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