農地が余り始めているド過疎の一農業者のボヤキである。
農家の出でなくて農業をやりたいと思った人には、様々な動機があるだろう。まず農業へのその人なりのイメージがあって、それに対し自分の何らかの動機が絡んでいく。
私の場合はどうだったか。イメージとしては、農業とは何か正しい生き方が実践できる仕事、ただし新規で始めて成功するのはかなり難しく、相当の覚悟が必要な仕事。そして動機の方は、まさに漠然とではあるが何か正しい生き方がしたい、世の片隅に追いやられている志の高い先人らに光を当てたい、そんな志を実現するために自分の力を試してみたい。そんなところであったろう。
何とか生き延びてきた今を振り返って、自分の原動力は、先人に光を当てたいということだったかなと思う。当時の私には、志の高い取り組みをしている農業者は往々にして異端児扱いをされているように映った。例えば有機JAS制度もない時代の有機農家はただの「変わり者」。あれは特別だ、放っておけ、の周囲の視線。これから何か正しい農業をしたいと意気込む私には、あまりに悔しい現実であった。なぜそういう扱いなのか。私なりに考えた結論が、経営規模が小さいからだ、例えばそういう農法で大きな経営をやればさすがに無視はされないだろう、じゃあ俺は10haとかの広い面積でやってやる。というものだった。
もちろん新規就農者がその規模で経営することなど、あまりに雲をつかむような話である。しかしながらその思いだけは一貫していた。そして念ずれば通づ。両親を始め実に多くの方々のご助力で果たしてそれは実現した。この道を志して7年後に7ha規模から開始し、多い年は20haもの規模で軌道に乗せることができたのである。
この間にはいろいろあった。新規就農者がぶち当たりやすい一般的なことから個別性のあることまで、「いろいろ」などと一言で片づけるのが惜しいほどあった。その時に乗り越える原動力となったのが、上で述べたような思いだったろう。自分が世の中を少しでも良くするんだ!自分にはできる!という使命感と勘違い。これらは何ものかを成し遂げた人が良く使う常套句と化しているような気がするが、それだけ大事なマインドと言えるだろう。
農業を始めるのなら、まずは農業というものを、かならず現場を見聞きすることでしっかりリサーチして自分なりの確かなイメージをもちたい。そして次に使命感を持つ。前者が困難のハードルを下げ、後者がそれを乗り越えるエンジンとなる。それができないならどうせ途中で挫折する。初めからやらない方が賢明だ。
つまりは他の産業と同じなのだ。同じことを同じと思えないところにこの農業界の新規者には「甘さ」がある。そういう人材は他の分野を目指す、とは一理。農業の魅力を伝えきれていない我々や周囲の責任ということか。
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